史跡・名所  橋南之部
                 書籍 (福井県の伝説より   昭和48年6/20発行)            東安居公民館
毛屋猪之助の館(相生町)
朝倉始末記巻第七に「天正二年国中の一揆大に蜂起し二月十三日毛屋猪之助が盾籠りける北庄の指向けて攻ける程に毛屋大勇の者といへども多勢に無勢叶ずして暫し防戦の末目害しけり」との一節が見える。この毛屋猪之助は越前に於ける朝倉方の勇士であるが、かねて同志の富田(とだ)孫六長秀、増井甚内と共に織田方へ心を通じ、朝倉滅亡の後は織田より据置かれた守護職桂田播磨守長俊の旗下に属したけれども、恩賞其の他に封する織田の仕打ち不平を抱いて、遂に富田等とく謀つて桂田を討伐し一時は越前一国を彼等浪人の手に押領した。併し天運拙なく一揆の蜂起に合つて北の庄の館を枕に自害したのであるが、この時の館は何の辺であらうか。
不動明王(不動町)
むかし、市内に或る石屋があつた。或る夜不思議な夢を見た。今の不動町のあたりを歩いていると、何ともいへぬ神々しさにうたれて来た、思はず傍の崖の上を見上げると、山腹に、恐ろしく威厳を持ち、頭、顔からだ全体から火を吹いた一人の佛大がきらきらと輝いていた。あまりの事にあツと叫んだ時に夢は覚めて我にかへつたのである。
しかし石屋の頭の中には依然として神々しい佛様のお姿がまだはつきりと浮かんで来る。夜はまだ明けなかつたが彼はがばつと起きて単身今の山麓にやつて来た。あちらこちら夢に見た光景をたよりに探し廻つている中に夜は次第に明け初めて、やがて輝かしい朝日が美しく山を照らし始めた。
と、其の時である。山の中腹に夢に見た輝かしい佛のお姿が現れた。暫し恍惚としていた彼は、何事かを決心してわき目もふらず我家にかへりノミを手にして引返し、崖に攀ぢて目に寫るがままに心に感ずるがままに一心不乱にノミを振つた。一念凝つた彼の魂は崖の中腹に輝き出した。「おおつ」と我ながらその作の見事なのに見とれていた彼の目はどうしたことか次第に光を失つてとうとう見えなくなつてしまつた。
しかし彼は人を恨まず世を憤らず、満足に余生を送つたといふ。この石屋の命かけての佛像こそ今の不動明王で毎月二十八日には盛なお祭りが行はれ、眼病除けの御利益があるといはれて何時も参詣人の絶える事がない。
眞田幸村の首塚(常磐木町)
孝願寺の墓所に、眞田幸村の首塚といふのがある。その墓碑には「大機院眞覚英性大禅定門西尾建之」と書いてある。首塚の由来はかうである。
元和元年三月の七日大阪夏の役に越前の兵は徳川家康の指揮にしたがつて左先鋒となつて天王寺口に討つてかかつた。相手は有名な大阪方の軍師眞田幸村の大軍である。茶臼山を擁して越前兵を全滅させようと猛烈に防ぎ戦つた。越前方では本多成重、吉田修理、荻田主馬等が左右から勇敢に突進したので、さすがの幸村の軍も追ひ立てられ、哀れ全軍の敗走となつた。すかさず越前兵は追撃して幸村の兵を殆ど潰滅させたが、主将幸村の行方がわからなかつた。此の時幸村は馬から下りて息を休ませていあたのであつた。敵の主将とは知らぬ越前方の西尾久作は槍をしごいて、此の武者に挑み遂にその首級を挙げた。久作は此の役に首十三も獲つたといふ程の剛の者であつた。首寛見のとき前歯が?はていた事からそれが幸村の首である事が分つて金帛と刀一振を賜つて戦功を賞せられ一層の面目を施したのであつた。
首級を携へて帰国した久作は地蔵尊を建て、供養したのが、今に孝願寺内に残つている首塚であるといふ。此の地蔵尊は何時の頃か首が落ちて壷の上に乗つている。若しこの首を元の位置に載せるとその人はきつと熱病に悩まされる。これは幸村の霊がたたるのであらうといはれている。又こんな話もある。此の首塚は幸村の鎧の袖だけを埋んだところで、首は眞田一族のために奪はれることを心配して福井の某所に埋蔵して一子相伝の秘密になつていると。
お岩の井戸(相生町)
むかし、孝願寺の門前あたりにお岩といふお婆さんが住んでいた。娘と二人暮しであつた。年頃の娘は行儀見習といふので殿中へ奉公させたが、やがて娘は尊い方の胤(たね)を宿してお岩のもとへ戻つて来た。月満ちて玉の様な男の子が生れたが産後の肥立が悪くて生れた子は母の乳に恵まれなかつた。それで祖母のお岩が、孫の可愛さで赤兒の育てを一身に引受けて毎夜赤兒を負ふて貰ひ乳に歩いた。
或る夜の事例の通りお岩は貰ひ乳に歩いていたが、どうした事かこの夜は非常に眠く、とうとう道傍に倒れてウトウトと眠つてしまつた。その時白髪の老人が現はれて「お前が眠つているその下の土を掘ると美しい清水が湧き出る、其の清水に白米を入れよ、そうすると清水は忽ちお前がもとめている乳になるであらう、決して疑ふな」と有難い夢の告があつた。目のさめたお岩は試みに土を掘つて見た。教へられた通り清水が滾々(こんこん)と湧き出た。白米を入れるとお乳に変つてしまつた。それからはこの井戸へ白米を投じて乳のない母だちの祈るものが年毎に増して行つた。
和田屋といふ薬種屋の前に近年まで大きな井戸のあつたのが、このお岩の井戸であるが、水道工事の邪魔になるとて蓋をしてからは外面からは見えなくなつた。このお岩の井戸の水は足羽神社の綱井(つながい)に通じているのだともいはれている。
正直屋(相生町)
相生町の元神宮寺中町に正直屋といふそばやがあつた。正直屋といふ屋号は、福井の殿様の一伯様が孕み女を探した時、ここの家では殿様の仰せだからといふので、正直に孕み女を世話して出したので、殿様から賞として戴いたのであるといふ。
安養寺の黒門(穀ャ)
足羽山の麓の安養寺の門には奇瑞があるとの噂があつたので、昔御殿大工の幾人かが門によじ上つて仔細に調べたがその造作の立派であるといふのみで、その妙趣を極めるとことは出来なかつた。
或る時安養寺が焼けた。大勢の者が駆けつけた、勿論その中には幾組かの大工達も居たが、既に猛火はあたり一面を取巻いて手の下し様がない。あの黒門だけは助けたいと思つたが、只見ているばかりであつた。その時不思議にも炎々と燃え上る大空に俄に黒雲が出て来たと見る間に大雷雨がやつて来た。しかし降りそそぐ雨は黒門だけに限られていた。一尾の大蛇が黒雲の上から黒門に水を吹きかけ、門の上からも幾十條の噴水が湧き上つた。
集つた人々が立騒いでいる間にさしもの猛火も遂に消えて黒門は焦げ跡一つもつかなかつた。後明治三十三年の橋南の大火にも不思議にこの門は焼け残つた。その後の火事にも焼け残つた。かくてこの門はどんな火事にも焼けないといふ噂が人々の間に深く植えつけられて、火除けの祈願をこの門にこめる人も少なくないといふ。
運正寺の名鐘(穀ャ)
むかし運正寺の前に源作といふものが住んでいた。その妻のお勝といふのは大層嫉妬深い人であつた。時々お勝は源作と言い争つた。その頃常憲院御臺所のお病が重いといふ報が街に伝つた。人々はその御平癒を祈るために名鐘を鑄ることにした。鐘に要する金物は人々の誠意に訴へて集めることにした。鋸を出した大工、簪(かんざし)を出した嫁、刀を出した武士もあつた。
鐘の金物を源作の家に募集に来た時は、お勝が源作と口汚く罵(ののし)り合つていた。お勝は腹が立つていたので鐘を取り出して渡した。其の頃の鐘は金属で出来ていたのである。いよいよ鐘が鑄造(ちゆざう)されて撞き始めの目出度い儀式が行はれることとなつた。人々は四方から集つて来た。勿論お勝も其の大勢の中に交つていた。人々は眞心こめて造つたこの鐘さだめしすみ切つた美しい音が響くことだらうと心待ちに待つていた。やがて刻限になつて鐘は撞かれたが、意外にもそれは世をのろう音であつた。人々は驚いて鐘の傍にかけ寄つて調べた。見ると今まで気が付かなかつたが、鐘の横には一面の鐘がぴつたりとくつついているではないか。その鐘こそお勝の奉納したものであつた。「嫉妬邪慳は佛様も入れなさらない。」と、それよりお勝は御臺所様に申請がないとて狂気のやうになつてしまつた。鐘は再び鑄直されて美しく静かな妙音は遠くひびき渡つた。それは恰も一週間程前に亡くなられた御臺所様の霊を弔ふがやうに。
覆面の怪童(穀ャ)
松平秀康卿(浄光院殿)は慶長十二年閏四月八日逝去と共にその遺骸は孝願寺に葬つたが、家康公の上意で浄土宗に改葬するやう法会(ほうえ)が行はれる日である。藩の諸士は思ひ思ひに御霊屋の前に禮拜した。秀康卿に仕へた家臣に加藤宗月(そうげつ)といふ武士があつた。彼も今日の法会に加はつていた。やがて彼は席を離れて只一人、主君の此の世にいませし頃の思ひ出に沈みながら石橋を渡つて御霊屋の前に額づいたのであつた。
其の時、右手に抜身の晃々(くわう)たる一刀を携へて忍びやかに宗月の背後に迫つた覆面の怪童があつた。怪童は飛鳥の如く躍り掛つた。「無禮者、何者だツ」。怪童の姿は何処へか煙の如くに消え失せていた。
山中隈(くま)なく捜索したが怪童の行方は遂に分らなかつた。時の運正寺の住職は寺内不取り仕取締(ふとりしまり)のかどにて寺を遂はれてしまつた。宗月はもと信州蘆田(あしだ)の城主として十三萬石を領し、松右衛門と称していた頃、故あつて小栗三助といふ者を手にかけて高野山麓に立退いていた事がある。井伊兵部小輔(せういう)の取計らひで将軍から一命を赦されたが本領は取上げられて扶持米五千俵を附けて越前家へお預けの身となつたものであるといふ。宗月を襲つた抜身の怪童は彼に殺された三助の遺兒であつた。運正寺の住職が其の孝心に愛でで手引したものであるといふことも後になつてわかつたといふ。
宗圓寺の毘沙門天(若松町)
福井城は下名城の一つであつた。松平秀康卿の入国と共に六年間の苦辛の結果慶長十一年丙午の歳に竣工した。丙午の歳は因縁がよくないとかで陰陽師(おんやうし)は厄除の祈願を申出たが用ひられなかつた。そのためであるかどうかはわからないが、寛文九年四月十四日にはさしもに雄大な福井城も火災にかかつて焼失してしまつた。それから後のことである橋南寺町の宗圓寺の幾代目かの住職が毎夜不思議な夢を見た。毘沙門天のお姿が現はれて涯しも知ぬ廣野を手招きしながら住職を導いて行く。深く草叢(くさむら)をすぎてじめじめとした川のほとりに着くと毘沙門天のお姿が消えて、蘆(あし)の中から目も眩(まば)ゆいばかりにパツと光が指す。何時もその時はつと夢が覚めるのである。
或朝、寺を出た住職は足羽川の畔に出たが、さつと顔色をかへた。そのあたりの景色が毎夜の夢に見る景色と同じであつたからである。住職は我知らす茂る蘆の中を掻き分けて進んだ。そこに思ひがけなくも一体の佛像を見出した住職は正夢の奇瑞を聞いて集つて来る庶民の病気は「我を祀れそうすれば庶民の苦悩を救つてやる」といはれた毘沙門天の夢の告げの通り立どころに平癒した。それからは毎月の二十三日を毘沙門天の例祭日と定めて今も祭事を続けている。
この毘沙門天はもと福井城の天守閣に祀られあつたものであるといふ。天守閣の屋上四隅に四天王の尊像が安置されてあつたが、福井城が焼けたとき他の三体の尊像は発見されたが毘沙門天だけは見付けられなかつた。濠に落ちた尊像がやがて足羽川へ押流されて、河原の砂に埋れていたのであらうといふ。
安国の名號(玉井町)
玉井町の心月寺に蓮如上人の「安国の名號」といふのが宝物として残されている。むかし蓮如上人が北国へ巡行されたとき加賀と越前の国境に吉崎御坊を建てられた。吉崎御坊は当時越前の国主であつた朝倉敏景公が蓮如上人を崇敬して金銭・米穀・人夫や石材等を寄進して建立したのであつた。それで蓮如上人も大層お喜びになつてその姫君を敏景公の室とられた。
しかも常時は一向宗一揆の戦乱のはげしい時代であつたので吉崎御坊も度々法敵の激襲を受けたが、蓮如上人はいつも「世相の乱脈を整調して人心の平安を圖るは念佛為本の一行あるのみ」と説法して「安国の名號」をお書きになつて遍ねく弘められたといふことである。玉井町の心月寺は朝倉家の菩提所としてもと一乗谷にあつたが、朝倉家の滅亡と共に丹生郡吉江に移り、慶長八年に福井藩主秀康公の再興によつて現在の地に移された。心月寺は曹洞宗であるが、ここに蓮如上人の「安国の名號」が残されているのは、上人が吉崎を退去される時「吾れ歿後の遺身なり」とて自分の姫即ち繁景公の室にお授けになつたものが、朝倉家の菩提寺の心月寺に伝つたものであるといふ。
鯰神様(足羽上町)
足羽山へ上る道の傍に俗に「なまず神さん」といはれているお堂がある。堂の外面は奉納した鯰の絵馬で飾られている。お堂内の本尊は虚空蔵菩薩(こくざうぼさつ)である。今から三百年余りも前のことである。福井の大金持として知られた慶松五右衛門といふ人は虚空蔵菩薩の信心家であつた。岩代ノ国河沼、柳津の里の永昌寺福満の虚空蔵に信心して毎年遙々と参詣を続けた。或る年のこと佛師の名前や住所までも聞いたのである、余りにも不思議なので佛前を退いた彼は早速夢に教へられた通りの場所に訪ねて見ると矢張り佛師も居た。件の佛師はタツタ今、虚空蔵の尊像を刻り上げたところであるといふ。佛師は五右衛門を見て、「何でも先日一人老僧がここへ訪ねて来て虚空蔵菩薩の像を作つてくれと頼んで行つたが、その時老僧がこの玄関を出ると煙の様に消えて行方が分からなかつた。この怪しい老僧の頼みに應じてよいか悪いかいろいろ悩んだ?句に、ともかくも刻り上げたのが此の尊像である。しかも刻り上げた刹那(せつな)にあなたが貰ひに来たといふことは全く不思議である。」と佛師は喜んで此の尊像を五右衛門に譲つてくれた、五右衛門はそれを奉持して帰国し、程近い足羽山の中腹に祀つたのが寛永六年で、今の鯰神さんの起原であるといふ。誰が言ひはじめたか此の尊像に祈願すると皮膚病の「なまず」が快癒するといふのでなまず神さんの名がついたといふ。
百坂下のお清水(足羽上町)
元の神宮中町に足羽山へ上る百坂といふ坂がある。その百坂の下にお清水(しやうず)があつた。福井藩の殿様時代には毎朝お殿様が一番最初に其の池の水を使用された。使用されない中は町人は其の水を使用することが出来なかつた。足羽山の麓からこんこんと湧き出て大変清涼な飲料水であつたので、何時とはなく眼の悪い人がその水で眼を洗つたり、又身体のわるい人がこの水を飲めば病気が癒るといふ話が次第に伝はつてからは、遠方からわざわざこの清水に水を貰ひに来るものが続々とあつた。しかし今から二十年程前にきたない乞食が草蛙のままで、この清水に足を突つこんで洗つたのでそれからは崇があつて水が湧き出ない様になつたといふ。今はこの地を埋めてその上にお地蔵様を建てて毎年八月二十八日にはお祭がある。
身曾貴(輪くぐり)神事(足羽上町)
足羽神社では、毎年七月三十一日の夜半年の大祓祭が行はれ、当日は輪くぐりと称して氏子、敬神家が多数参詣する。輪くぐりの神事は社前に蘆(あし)で編んだ輪を立て、中を三回くぐつて自分の身を清める行事である。蘆は水草であるから、水にくぐづて身を清める意になるのであるといふ。
天魔ヶ池(足羽山上)
元は天満ヶ池といつたのを後世天魔ヶ池と誤り伝へるやうになつたといふ。建久八年右大将源頼朝が足羽山上に登り山頂の佳景を嘉せられ、自ら彫刻した菅原道眞朝臣(あそん)の神像を此の地に残し、社を建てて之を安置して、神事を足羽神主に託した。これが足羽神社の末社天満宮である。天満宮は天正兵乱の後に大破したので足羽神社に合祀することになつた。天満宮の前に池があつた。これが即ち天満ヶ池(天魔ヶ池)である。後豊臣秀吉が柴田勝家を北庄に攻めた時この池の傍に陣取つて指揮したといはれている。
狼(足羽山の狼)
福井市東部の鬼子母神(ぎしもじん)の前に茂林院(もりんいん)といふ禅寺がある。何代か前の住職に清閑和尚(せいかんをしやう)といふのがあつた。体は大きくなかつたが禅僧らしい剛膽な人であつた。或る日福井の橋南の小山谷(をやまだに)の瑞源寺(すいげんじ)の法要に行つて帰りが遅くなつた。帰り途には小山谷の火葬場があつて狼が出るといはれている狼谷もある。その狼谷の辺を右手に見て立矢(たちや)の縄手にかかると後から何者かついて来るらしい異様のものの足音がする。狼はいつも直にとびかかるのではなく、人のあとをつけてその人に一寸でも隙があつたらとびかかるのである。例へばつまづいて転ぶとか、驚いて駆出すとかいふ場合である。
和尚はこれこそ送り狼だなと気がついているが、狼の習性を心得ているので一向無頓着な振をして歩いていた。そしてしまいに「自分の様な痩せている者を食つてもおいしくないだらう、もうつけて来るのは止せ」と狼に云つて平気で帰つて来たといふ。
史跡・名所へ